第5章 命取りなこの家、もう手を引くことにした
長谷川栞は一夜、夢を見なかった。翌朝、目を覚ますと階下へ降り、自分の朝食でも作ろうとした。
けれど階段のところまで来た時点で、もうふわりと湯気の匂いが鼻をくすぐる。
――中尾美希だ。
家族の朝食を用意し、いまは中野航平のために手挽きのコーヒーを淹れている。
栞の姿に気づくと、美希は柔らかく笑って声をかけた。
「栞さん、起きたんですね。ほら、サンドイッチ作ってみたんです。お口に合うといいんですけど」
「美希おばさん、料理上手だもん。嫌いな人なんていないよね」
中野蓮がにこにこと持ち上げる。言い終えたあと、こっそり栞を窺った。怯えの混じる顔。
怖いのに、嫌い。
ママが急におかしくなった。どうして、あんな冷たい目で自分を見るんだろう。
――栞には、息子の腹の内が手に取るように分かった。
可笑しくて、口元がひくりと歪む。
自分は気づかれていない、とでも思っているのだろうか。子どもの浅い計算に。
かつての栞は、確かに美希を憎んだ。だがそれは、夫のそばに距離の近い女がいることに耐えられなかっただけだ。
美希が蓮の面倒を見ること自体は、ずっと見て見ぬふりをしてきた。
蓮は中野家の孫。出産後、義母から何度も釘を刺された。教育を緩めるな、と。
本当は、子どもにはのびのび育ってほしい。漫画もゲームも好きで、自然の中ではしゃぐ、あの無邪気さを栞は知っている。
けれど中野航平の妻として、社交界の視線を浴びる中野夫人として、どうしても厳しくならざるを得なかった。
だから蓮は父親に愚痴る。ママは厳しすぎる、と。
知らないだけだ。
栞は各国の書を読み漁り、できる限り無理のないカリキュラムを組んだ。締めるところは締め、遊ばせるところは遊ばせる――そのために。
そして、美希がまだ栞の下で実習をしていた頃。
栞は自分で描いた童話の小冊子を美希に渡し、これで蓮と仲良くしてほしい、と頭を下げたことさえある。
蓮の大好物の金目鯛の煮付けだって、栞が手取り足取り教えた。
それが最後には、自分を刺す刃になる。
栞の表情は冷えきり、どこか滑稽な絶望が滲んだ。
「……それ、何を着てるの?」
まさか最初の一言がそれだとは思わなかったのだろう。美希がびくりと肩をすくめる。
「ワ、ワンピースです。昨日、着替えがなくて……ウォークインクローゼットから適当に。栞さん、どうかしましたか?」
どうかした、だって?
他人が、彼女の私物を身につけ、彼女の夫にコーヒーを淹れ、彼女の子どもに朝食を作っている。そのうえで、どうかしたのかと問う。
中野航平は、栞がまた揉める気だと察したのか、先に眉を寄せた。
「長谷川栞、服一枚だ。騒ぐな」
「渡したカードがあるだろ。買い直せばいい」
その言葉に、栞は堪えきれず鼻で笑った。
胃の奥がむかむかする。つわりなのか、空腹なのか、自分でも判然としない。
「中野航平……忘れたの? それは――」
二人が初めての夜、彼女が着ていた服。
まだ若くて、世界が眩しかった頃。
パーティーで大口の契約を取れると信じ込み、取引先に酒を飲まされ、気づけば薬を盛られていた。
そして社長と、偶然が重なって一夜を共にした。
翌朝、服は破かれ、出社もできず、ベッドの端で真っ赤になって座っていた。
男はそれを「可愛い」と言って、助手に命じてこの高級なセットを買わせた。
それが始まりで、彼女は彼の秘書に抜擢された。
栞にとっては、すべての起点。
それを忘れて、美希に着せる。吐き気がするほど汚らわしい。
航平は、言いかけて止まった栞の顔を見て、嘲るように口角を上げた。
「……何だ? はっきり言え」
「そんなにその服が惜しいか?」
空気の変化を嗅ぎ取った美希が、慌てて割って入る。栞の手を強く掴み、必死に言い募った。
「栞さん、社長を責めないでください。何も知らないんです。勝手に着たのは私です」
「社長が、可哀想だからって脱がせなかっただけで……私、栞さんがこんなに気にするなんて……」
「ごめんなさい。すぐ着替えますから、怒らないでください……!」
今にも涙が落ちそうな目。
栞は込み上げる吐き気を押し殺し、手を振り払った。
「いい。似合ってるから、あげる」
「その服だけじゃない。私のウォークインクローゼット、気に入ったものは全部あげる」
そして航平を見上げ、薄く笑う。
「……この家で私が持ってるものは全部、あなたのものよ。中尾美希」
「長谷川栞!」
航平がついに机を叩き、怒鳴った。
「お前はどこまで彼女を追い詰める気だ!」
「追い詰めてるのは私じゃない。あなたたちが私を追い詰めてる」
ピン、とスマホが通知音を鳴らした。
栞は画面を落とす。
カウントダウン――残り十三日。
このままじゃ、十三日も持たないかもしれない。
男は毎日、平然と彼女の底を踏み抜いてくる。今日は服。明日は何だ。
そう思った瞬間、美希からふわりと香りがした。
香水。
遠くでは気づかなかったのに、近づくと鼻を刺すほど濃い。
香りに敏感な栞の顔色が、さっと青ざめる。
脳裏に、かつて自分が書いたメモが浮かんだ。
――3、女に香水をつけさせない。
……そうか。
中野航平、そういうこと。
彼が口にしていた「ルール」は、私がいる時だけ存在していたんだ。
栞は笑ってしまい、涙が勝手に落ちた。
この瞬間、もうカウントダウンを待てないと思った。今すぐにでも、消えたい。
両親も、祖父も、幼馴染も待っている。
どうして航平のために、ここで辱められ続けなきゃいけない?
「追い詰められてるなら、出ていけ!」
航平も爆発したように、氷の声で言い放つ。
「家で不機嫌な顔して、皆がお前に借りがあると思ってるのか? 長谷川栞、離婚したいんだろ。……離婚してやる」
栞の胸が上下する。荒い息。
「いいわ。じゃあ――」
「離」の字を言い切る前に、喉元を押さえた。
呼吸が乱れ、全身が熱くなる。視界が揺らいだ。
信じられない、という目で美希を見る。
香水……花の香り……。
栞は惨めに笑い、最後の言葉を吐き捨てた。
「中野航平……私を殺したいなら、そう言えばいい」
そのまま、意識がぷつりと途切れた。
